レッスン「もう一人の自分」

作文1回目

 私は怠けものだ。大抵のことが面倒くさい。特に人間関係なんかは、その極みである。他人に依存してしまうのも、依存されるのも大嫌いで、常に自由でいたい。孤独を愛しているわけではないけれど、わかりもしない相手の心を汲んで、自分の行動に制限がかかるくらいであれば、孤独のほうが幾分かましだ。

 そんな私が、程よく社会の輪に溶け込んでいるのは、私の中に搭載されている、「サービス精神」という機能に他ならない。これは、私の好みや信条とは関係なく作動する。例えば、目の前の人が何か話しているとき、私は興味がないので退屈しているのだが、そんなときにこいつが首を擡げる。よせばいいのに気持ちの良い合いの手で相手の話を長引かせる。

 しかし私は、この目立ちたがり屋の偽善者のことが嫌いなわけではない。性格はほとんど正反対だが、傲慢という点では共通している。そして、共通して「自分」という存在を愛している。人前で話したり、初対面の人たちと飲みに行ったりするときは、こいつに「自分」を完全にゆだねている。お酒が入ると調子に乗りすぎるのが玉に瑕だが、「自分」が饒舌をふるって場を掌握しているのを眺めるのはいい気分だ。

 まあ、こいつの落ち着きのなさでは今のデスクワークは務まらないから、ギブアンドテイクというやつなのだ。

講義の感想

私自身にも、私の〈すべて〉は捉えられない。〈私〉は、その総体を捉えることのできない無限の〈断片〉の集積なのです。個々の断片をとり上げて、私たちはそれを「私」と名づけているだけで、総体としての〈私〉などだれも捉えることはできない。

自分からひとつの性質を抽出する。それを軸にしてさらに深く分析することで、ひとつの人格が出来上がる。そのようにして生み出された人格は、それぞれ個性があるにも関わらず、軸が自分と同じであるため、心理的な作用をより現実的にとらえることができる。

『吾輩は猫である』の苦沙弥と迷亭、『禁色』の俊輔と悠一などは、誇張され肉付けされてはいるが、軸は作者が持つ性質のひとつと共通するだろう。小説を書いてみたいという欲求があるので、今回のテーマで自分の性質を研究することが、今後の人物描写における材料集めとなるかもしれない。

作文2回目(講義の後)

「もう少し謙虚になりなさい。」

 私は、道徳の先生である母から、よくこの言葉をかけられる。傲慢さ、どうやらこれが私の欠点らしい。しかし、今日は私が飼っている、この愛らしい特性を擁護してあげたいと思う。

 傲慢というのは、七つの大罪の一つにもなっているほど、不道徳な性格として世界中で認知されている。私の傲慢さを育む原因となっている自信は、おそらく強い自己愛からきている。自意識過剰というものは、一見、楽天的な印象を与えるかもしれない。しかし、自分を過大評価すると、理想と現実の差異が生じる。その時、それが自分本来の力だと認めることができない。自分の努力や功績を褒めることができない。傲慢が罪なのだとしたら、この達成感への満たされることのない渇きこそが、罰と言えるのではないだろうか。

 しかし本来、傲慢の罪は、他人を侮り見下すことにあるので、この弁護は的外れだと言われるかもしれない。私は他人を見下しているわけではない。他人に関心がないだけなのだ。見下しているように見えるのは、他人の言葉に耳を貸さないからだろう。本心の知れない他人より、嘘をつかない自分自身を信じるのは至極当然だと思うのだが。  

 いろいろと言い訳を述べてきたが、私はこの性格についてとやかく言われる筋合いはない。なぜなら私はすでに罰を受けている。私には友達がいないのだ。

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