事実を読者の前に告白すると、28歳で夏目漱石の坊っちゃんを手に取るまで、ほとんど文学というものに触れてこなかった。
親切にも読書を勧めて呉れる祖父や恩師がいたので、それをいい機会にと何度か読もうと試みたことはあったが、読みきることなく杳たる有様で暮らしてきてしまった。自分の無精がもたらしたこととはいえ、中途半端を繰り返すことは決して心持の好いものではない。
歳が二十八になって、愈(いよいよ)三十路が現実味を帯び、自分の無知に年齢という言い訳が通用しなくなる恐怖から、初めて内側から読書への欲が湧いて出てきた時は、自分の好奇心に答える楽しみよりは、教養ある社会人の義務を片付ける時が来たという意味で何よりも嬉しかった。けれども長い間放り出して置いたこの義務を、どうしたら例(いつも)よりも飽きずに続けられるだろうかと考えると又新しい悩みを感ぜずにはいられない。
読みたい本があるわけではない。それならば、なるべく面白いものを読まなければ済まないという気がいくらかある。で、文豪と呼ばれる者が書いた小説ならば間違いはないだろうと考え、とりあえずは幼い頃からの顔馴染みである夏目漱石を読みはじめた。新潮文庫から出ている彼の作品を読み終わった後は、双璧をなす森鴎外に進んだが、文語体の壁にぶち当たり一旦挫折、より現在に近い三島由紀夫を読み始めた。よって、坊っちゃんから始まった2年間で読んだのは、夏目漱石と森鴎外少々と三島由紀夫、唯三人の文豪の作品のみである。
このブログを公にするに方って、自分はただ以上の事だけを言って置きたい気がする。
自分は理系であり、昔から読むこと書くことに対して苦手意識を持っていたために、自分の作物が読むに値するものだという自信をもちえぬものである。又そんな自信を不必要とするものである。からっぽの頭に文豪たちの作品が入ってくれば影響されることは必至であり、自分は自分であるという信念も持っていない。
自分は又店頭に並んでいる魅力的なポップの付いた流行書や、人に薦められた本を読むことを好まない。これは、天の邪鬼な性格の影響もないわけではないが、その新しい本を批評する能力がまだ自分に備わっていないと考えるからである。自分の中に絵でいう審美眼のようなもの、相対的指標となる感受性の芯のようなものができるまでは、時が経ってなおも評価されている作品を読んでいこうと思う。
このブログは、そんな読書の記録として、また、2年間の間に芽生えた書くことへの欲を満たすためと、完全に自己満足的なものであり、読書の良さを広めようなどという立派な目的は微塵もない。しかし、何人の目にふれるか知らないが、書いた以上、公にし得る場を作れるということは幸福と信じている。
「三十五過迄」というのは、三十路から始めて、三十五過迄は続ける予定だから単にそう名付けたまでに過ぎない実に洒落た標題である。ここには書評を中心に旅の記録や創作も書いていきたいと考えている。けれども私の性格上、計画を立てる時が最も目的意識が高い状態であり、実際に行動を起こしてからは右肩下がりになるというのが常である。この標題をつけたことを後悔するほど続けるのが理想だが、逆の理由で後悔する可能性が高いことは容易に予想できる。自分はそれでも差し支えなかろうと思っている。
(令和三年七月このブログを公にしたる時の緒言)