作文1回目
うんこを漏らした。場所が幼稚園だから、4・5歳くらいか。強烈な便意があった。みんなが教室に集まって先生のお話を聞く時間だったろう。排せつという行為に恥じらいを覚える世間一般園児の例に漏れず(糞は漏れたわけだが)、先生の話をさえぎって切り出すことはできなかった(糞は出したのだが)。しかし、勝算があった。
実は、幼稚園での大惨事の少し前にもうんこを漏らしたのだが、トイレに行ってパンツをひっくり返したら、コロッと便器の中に落ちたのだ。パンツは白いまま(当時は真っ白なブリーフを愛用していた)。そんな偶然の成功体験が、幼い私に間違った常識を植え付けてしまったのだ。
そして、幼稚園。萌芽した慢心は、脂汗の葛藤を、括約筋の悪あがきを、一切経ることなく便意に添った。その日はゆるかった。個室に入り、パンツを脱いだ私は悟った。そのあとのことはあまり覚えていない。
講義の感想
「哲学者もどき」の自分
平素からの私の悩み。「文章が退屈である。」ということ。私は個性がないからだと思っていた。そして、個性の乏しい私が唯一持っているのが、「哲学的」であることだと思っていた。しかし、ここの講義で気づかされた。私は個性の手間から逃げるために、哲学もどきの一般論を書いていただけなのだ。
自分が本来書こうとする事柄に十分の材料がないまま、不用意に書き始める場合には、一般概念のほうが取っつきやすいものです。これならば、持ち合わせの知識でひとまずなんとかなる、多少むつかしそうなことを述べてお茶をにごすこともできそうだ・・・・・・。
この哲学もどきには3つの過ちがあると思われる。
1つ目は、メモ集め不足。
この講義の最も革新的な部分でもある「メモ集め」、今回のテーマでいうところの記憶の断片の収集を全く行っておらず、一番最初に思い浮かべたものを選び、考えなしに書き始めた。この準備不足が個性から遠ざかり、安易に一般論に手を出してしまう原因となっている。今後はメモ用に手書きのノートを用意したいと思う。
2つ目は、承認欲求の強さ。
私は、どうも賢く思われるのが好きらしい。むずかしそうな言葉を覚えると、すぐに使いたくなってしまう。そして、「それってどういう意味?」と聞かれて、得意げに解説するまでがワンセットである。これを書きながら思ったが、どおりで友達が少ないわけだ。難しい言葉は個性でもないし、退屈の原因になってしまう可能性も持っている。
3つ目は、主張の強さ。
小説を読んでいても、急に作者の思想が強く出すぎると、せっかく入り込んだ世界から引きずり出されたような感覚に陥る。もちろん、この「作者」の存在は使いようだと思う。私の場合は、無意識だとそうなりがちなので、できるだけ避けようと思う。そして、無駄に冗長な文章や説明口調も、「作者」を感じさせて、退屈の原因になってしまう。
この過ちを自覚して、脱エセ哲学者を目指す。正直、上記「作文1回目」に関しては、あまり顕著に出ていないが、今まで書いてきた書評を読み返すと、思い当たる節がありすぎて恥ずかしくなった。
2回目の課題(講義を踏まえて)
- メモを集める
- 感覚>事件
- 簡潔に
作文2回目(講義後)
強烈な便意があった。目の前で読み聞かせをしている先生は意地悪に見える。汗が出る。姿勢を直す。周りのみんなはグルなのか。僕を窮地に追い込んで腹の中で笑っているのか。言えば楽になる。しかし、「うんこマン」と呼ばれる屈辱が待っているとわかっている以上、簡単な話ではない。覚悟がいる。度胸もいる。そして、賭けにでる。勝算はある。
先日、漏らしたときのこと、トイレでパンツをひっくり返すと、コロッと便器に落ちたのだ。パンツは白いままだった。
先生の話が終わり、慎重にトイレに向かう。成功体験から生まれた誤解は、いともたやすく忍耐を奪い去っていた。漏らしたのではない、我慢を止めたのだ。そう、パンツをひっくり返せばすべてが解決する。私は臀部に感じる違和感に蓋をして、悠々と個室に入った。パンツを下したとき、その違和感の正体に気が付いた。その日はゆるかった。
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