陰翳礼讃

「まあどう云う工合になるか、試しに電燈を消してみることだ。」

この締めくくりで有名な谷崎潤一郎の随筆。日本人独自の美意識の源流となっているものが「陰翳」てあるという主張のもと、建築、照明、紙、食器、食べ物、色彩など多岐にわたる考察を、文豪の卓越した洞察力で論じる。

世界中で翻訳され、様々な分野の知識人や芸術家に影響を与えているということで、私はかなり高尚なものを想像していた。

蓋を開けてみれば、戦後凄まじいスピードで進む西洋化への愚痴だった。洋式トイレで生まれ育った私にとって、この感覚を理解するのは非常に困難である。しかし、単なる懐古主義だと疎んじるには、あまりにも文学的であり、それぞれの考察で述べられている美意識の魅力に引き込まれた。日本人であることを誇りに感じると同時に、当時からさらに進んでいる科学的発展のために既に失われてしまった美意識が非常に惜しまれた。

といっても、日本が完全に西洋化したわけではない。気候も文化も異なるのだから当たり前のことだが、私の中にも「陰翳」に対する美意識というものは多少なりとも残っている。読んでいて共感する部分があるのだ。それが普段の生活ではなく、祖父母の家や学校の授業などの限られた時間のなかでの体験から養われた僅かなものだとしても、ゼロではないのだ。この随筆を読んだことで、自分の中にある美意識を認識することができた。文明が認めている美があれば、その中にいる人々は自然とその美意識を共通して身につけていくことができるだろう。今の日本では、その認めている美の感覚が薄まっているため、自然と身についてゆくことに期待することはできない。この美意識を身につけたいのであれば、自分自身で磨かなければならない。それには様々な方法があると思うが、私は鑑識眼に優れているであろう文豪たちの物の見方を読書から学びたい。

様々な例が挙げられたこの随筆の中で、私が最も感動したのは、以下の羊羹に対しての叙述である。

〈玉のように半透明に曇った肌が、奥の方まで日の光りを吸い取って夢みる如きほの明るさを啣んでいる感じ、あの色あいの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対に見られない。クリームなどはあれに比べると何と云う浅はかさ、単純さであろう。だがその羊羹の色あいも、あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めると、ひとしお瞑想的になる。人はあの冷たく滑かなものを口中にふくむ時、あたかも室内の暗闇が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う。〉

私は日頃から羊羹に美しさを感じていた。しかし、この美しさを言葉で表現することはできなかった。これができるようになりたい。これこそが私が読書を始めた理由である。これを読んだら美しい羊羹が頭に浮かんでくる。食べ物一つに対しても、五感を使って味わうことで描写力を高めることができるのだろう。この五感のなかでも、視覚での感動が美意識を磨くことに繋がるのかもしれない。次に羊羹を食べるときは口に入れる前にじっくりと観察してみることにする。試しに電燈を消して。

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