本作は1938年6月26日から12月4日にかけて打ち継がれた、21世本因坊秀哉名人の引退碁を観戦記者からの視点で描いた記録小説である。名人は引退碁の翌々年1940年1月18日に満66歳で生涯を閉じた。
川端康成は実際の引退碁においても、観戦記の執筆を行い、『東京日日新聞』、『大阪毎日新聞』両紙に連載された。川端康成は文壇の囲碁仲間内でも「打ち手」として知られていた。
私にとって囲碁といえば、父のイメージだ。そして、将棋よりも何やら勝敗の分かりづらい難しいゲームという印象があった。遠い親戚に碁盤を作成している人がいたため、両親が結婚祝いでその方にもらった立派な碁盤が、うちの畳の部屋には鎮座していた。父の説得の甲斐なく、子どもは誰も興味を持たず、宝の持ち腐れとなってしまったが。今はスマホで碁を打つ時代、父も満足そうだが、家の碁盤の埃が払われる日は遠そうだ。
私はなぜ碁を打たなかったのだろうか。勝ちまでの道のりを長く描きすぎて、極度の負けず嫌いがそこに踏み出すことを避けたのか。私の人生はそういうことが多いように思う。先に立たないはずの後悔を見て、挑戦の芽を摘んでしまう。それを繰り返すうちに根っこである好奇心までもが腐りかけてしまった。読書を始めて、今までに摘んだ芽や枯れた苗を惜しんでいる。私は人生の序盤において無策だった。布石が甘かった。今は中盤。ヨセまでにどれだけ巻き返せるか。
この小説は実際の観戦記がもとになっているだけあって、重苦しい臨場感が伝わってくる。女性を描くことがほとんどの川端作品の中では異色の作品であるが、碁をに打ち込む名人の姿は、尊敬の対象であり、改めて小説として創り上げたいほどの大きな存在だった。碁を知らない人でも、この作品を読むと、その偉大さに触れることができる。
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