川端康成・三島由紀夫往復書簡

昭和20年から昭和45年の25年に渡る師 弟関係にあった文豪二人の書簡集。

昭和20年と言えば、三島由紀夫は20歳。大学卒業を控え、文壇入りに意気込んでいた時期である。そんな中、川端康成をたいぶ頼りにしていたようだ。尖りにとがった批評や、身内の日常、愚痴まで、様々なことをあけっぴろげに書いている。川端はそんな若い三島を受け入れていたし、三島も気に入られていることを理解していた。

以下は、昭和31年10月23日付けの川端から三島に送られた手紙からの抜粋で、『雪国』が英訳出版されたことの報告の内容である。

〈私の履歴に remarkable young writers as Yukio Mishima を has discovered and sponsored とあるのにも驚きました。あなたにすまない気がします。(中略)いづれは私の名は文学史上にあなたを discover したという光栄なまちがひだけで残るのかもしれません。〉

これを読むと川端がいかに三島の才能を認めていたかが伺える。

三島が作家として成功したあとも、この師弟関係は続いていくが、ノーベル文学賞の話題から急にやりとりの密度が小さくなってゆく。二人は同時期に候補者となった。川端は年長者に譲れと言わんばかりに、三島に推薦状を依頼。この推薦状もこの書籍の中で読むことができる。最終的には、みなさんもご存知の通り川端が日本人初のノーベル文学賞を受賞する。川端はインタビューの中で、サイデンステッカーの訳がすばらしかったこと、三島が若かったことを受賞の理由にあげている。川端は、三島がここで賞を逃しても、数年後に受賞できると本当に信じていたのだろう。

しかし、三島は、25も歳上の川端より先に人生の幕を下ろしてしまう。市ヶ谷駐屯地での割腹自殺は衝撃的な事件だが、三島にとっては思い描いていた計画的な最後だったのだろう。昭和44年の手紙には川端に向けてこのように綴っている。

〈小生が怖れるのは死ではなくて、死後の家族の名誉です。(中略)生きている自分が笑われるのは平気ですが、死後、子供たちが笑われるのは耐へられません。それを護って下さるのは川端さんだけだと、今からひたすら頼りにさせていただいてをります。〉

三島の政治的な活動には、距離をおいていた川端は、これを読んだとき何を感じただろう。おそらく、ただごとではない何かを感じとったはずだ。そして、三島の死後2年後、川端もガス自殺でこの世を去っている。

文豪二人の書簡は、文学としても楽しめる。ラストを知っている我々にとってはなおさらドラマを感じるだろう。お互いの執筆中の作品のことや、完成した作品に対する感想なども多く話題になっているので、二人の作品を読んでいると、さらに面白く読める。そして、二人の人柄と関係性を知ることは、それぞれの作品をより魅力的にしてくれるだろう。

コメント

タイトルとURLをコピーしました