精読者へと導く/文章読本

文章読本の目的

三島由紀夫はこの本の目的を<いままでレクトゥールであったことに満足していた人を、リズールに導きたいと思ってはじめる>と明示している。「レクトゥール」と「リズール」というのは、フランスの文芸評論家A. ティボーデが著作の中で小説の読者を2種類に分けて表現した言葉で、 「レクトゥール」 は「普通読者」、 「リズール」 は「精読者」と訳される。この訳を見ると、」読んで字のごとくで何となく意味は分かるが、二つの言葉の定義は、仮に本を手に取った者が「普通読者」だった場合、おそらく私を含めてその場合が多いだろうが、非常に難解なものである。文章読本にも 、「普通読者」については、 <小説といえばなんでも手当り次第に読み、『趣味』という言葉のなかに包含される内的、外的のいかなる要素によっても導かれていない人> 、「精読者」については、<その人のため小説世界が実在するその人>、<文学というものが仮の娯楽としてではなく本質的な目的として実在する世界の住人>、<いわば小説の生活者>と、ティボーデ の定義が引用されている。哲学じみていて、何となく言いたいことはわかるものの、文章ひとつひとつを紐解いていこうとすると、どこかで絡まってしまう。この内容は、文章読本の冒頭も冒頭なので、ここで躓いてしまうと読む気がうせてしまう。とりあえずは、「普通読者」は、読書を娯楽として楽しむ一般的な読者、「精読者」は、読書を趣味として深く味わう読者という理解でよいと思う。

以下は私の勝手な解釈で、リズールに踏み込んでいきたい。

三島由紀夫は、「私の小説の方法」という評論の中で、<小説は現実を再構成して、紙上に第二の現実を出現させなければならない。>と語っている。つまり、小説を書くというのは、神が創造したこの世界を真似て、新しい世界を構築し、そこでは自分が神となり、その世界の住人たちを動かしていく。ということなのだろう。脳の中で作り上げた世界を、言葉という媒体を使って小説という形で構築することにより、現実の世界で私たちの目に触れることができるのだ。そのようにして作られた小説が私たち読者の手に渡った時、ただ言葉のままで読んでいるだけ、言葉の意味を理解していくだけではなく、その言葉から作者が作り上げた世界を再構築することが重要なのである。さらに、この再構築した世界の現実性を高めていき、その世界の中で生活できる感覚まで到達した者を、「精読者」と呼べるのではないか。 もちろん、1冊の本を読むだけではその域に達することは不可能である。今後の読書への取り組み方によって少しずつ 「精読者」 に近づくのだ。読書による感覚の磨き方の指針となるのがこの「文章読本」というわけだ。

「精読者」 への一歩

この本の素晴らしい点は、文章の種別や文章の技巧の解説とともに、その例として三島由紀夫が選りすぐった世界中の名作からの引用がされているところだ。私のような読書駆け出しの者にとって例があるのは非常にありがたい。文章の技術的、歴史的な説明や文章の好例を読みこむだけで、今後の読書においてより細部まで意識が届くようになるだろう。そのような、解説的側面が多くを占めている文章読本の中に、読書に対する姿勢について指摘している部分があるので紹介したいと思う。

どう読むか。

三島由紀夫が<声を大にして>勧めているのが、<文学作品のなかをゆっくり歩>くことだ。

先ほど「リズール」の解釈として、現実性を高め、構築した世界で生活することだと表現したが、その第一歩として、小説の内容ではなく、小説を構成する文章の細部を楽しめるようにならなければならない。そのためには、時間と集中力を現在の何倍も費やさなければならない。小説家は言葉を扱う職人であるため、文章の作成には細心の注意とこだわりが練り込まれている。つまり、鑑賞用として作られている小説には、読者がそれだけ労力をかけて読み込む器が備わっている。米を噛み続ければほんのり甘さ、心地よい甘さを感じるのと同じように、それだけ咀嚼を繰り返さないと小説本来の味わいを感じることはできないのだ。

この主張はショウペンハウエルが「読書について」で推奨している、「重要な書物はいかなるものでも、二度読む。」ことと、時間をかけるという部分では通じているが、あくまで自分の思索の材料としての読書と考えるショウペンハウエルと異なり、三島由紀夫は小説を芸術作品としてとらえ、それを味わう手段である読書のありかたを唱えている。これは、先輩リズールとしての後輩レクトゥールに対する助言であることに違いはないが、小説家三島由紀夫として、自分の作品をどのように読んで欲しいかという願望も含まれているという気がする。

<小説はそのなかで自動車でドライヴをするとき、テーマの展開と筋の展開の軌跡にすぎません。しかし歩いていくときに、これらは言葉の織物であることをはっきり露呈します。(中略)小説家は織物の美しさで人を喜ばすことを、自分の職人的喜びといたしました。>

何を読むか。

<最上のものによって研ぎ澄まされれば、悪いものに対する判断力を得る>。これは音楽でも同じことが言われる。演奏が上手になりたいのなら、上手な演奏をたくさん聴くことが重要だ。いくら文章をゆっくり歩いても、それが職人的気質で織られた美しいもの、精読に耐えうる器がなければ、小説を味わうことはできないし、感覚の成長も得られない。芸術作品である以上好みというものが良し悪しの判断基準に組み込まれてしまうが、「精読者」を目指すものにとって本の選定を好みに委ねてしまうのは非常に危険である。私の場合、かなしいことに普通読者の初級であるため、何が良文で何が悪文かという判断ができない。なのでとりあえず、歴史が認めている文豪たちの本を選んでいる。「文章読本」の第三章(小説の文章)の冒頭で、森鴎外と泉鏡花、二人の対照的な文豪がお手本として紹介されている。

<私がこの二つを冒頭に引用したのは、序説の男文字と女文字の伝統、論理的世界と情念の世界との対立が、同じ近代文学と言われるもののなかに、いかにも尖鋭な形で相対しているところを示したかったからであります。他の作家の文体はいずれもこの二つの極の間に、それぞれ星座のように位しているのであって、その間には様々な折衷主義もあれば、また変種もあります。>

三島由紀夫自身は、この座標の中のどこに位置すると考えていたのだろうか。今後、森鴎外と泉鏡花を読んだら、何かわかることがあるかもしれない。そして、他の文豪たちも。

総括

三島由紀夫はこの「文章読本」の結びで述べているように、文章の最高の目標を格調と気品に置いている。そんな彼が選んだ名文は、「精読者」へ導いてくれる最善のルートとなる小説であろう。この本を読むことで、今後の読みたい本、読むべき本がより明確になった。また、ここで多く登場した「文体」という言葉、私はまだしっかりと理解しきれていない。これは、実際様々な小説家を読む中で理解できるようになると思っている。今後の課題としたい。

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