序文
カテゴリーに「読書論」を設けたのは、読書の必要性というものが、私の読書生活に常につきまとう問題であるからだ。人に読書を勧めるつもりはないが、なぜ読書をするのかという問いには答えられる状態でいたい。読書は有益なものである。それは間違いない。しかし、なぜ有益なのか。単純に読書自体に惹かれたわけではないから考えるのかもしれないが。何かを得るためにというのは楽しみ方として邪道なのかもしれないが。しかし、読者に何ももたらさないのでは、世の中が勧めるところの読書は嘘になってしまう。私は読書から吸収できうる限りのことを吸収したい。そして、自分の能力に昇華したい。そのためには、読書論を考えることは読書に勤しむことと同じように重要であると考える。
ありがたいことに多くの読書家、批評家や小説家がそれぞれの読書論を残している。そのような、様々な読書論、読書観に触れ、自分なりの読書に対する姿勢、そして、問いへの答えを見つけたいと思っている。
「思索」と「読書」
「思索」、「著作と文体」、「読書について」の3つから構成されている。ページ数でいうと「著作と文体」に多くを割いているが、当時の出版業界やドイツ語の間違った使い方への不満が多くを占めており、求めている読書論からは少し離れてしまうので、「思索」と「読書について」の感想をまとめたいと思う。
偉大な哲学者が残したということで、この読書論の最初の記事を飾るのにぴったりだと読み始めた。しかし、読書の重要性が語られると思っていた中身のスタートは、読書をこき下ろしたものだった。そこには「思索」の重要性が語られており、その比較対照として、読書が挙げられているため、結果的に下げられているのだ。
「思索」とは、この本に書かれている言葉で私なりにまとめると、「ある真理に辿り着くために、考え抜くこと」である。そして、「読書」とは、他人にものを考えてもらうこと。思索は自ら思想を生み出し、読書は思想を植え付けられる。
ショウペンハウエルは、読書や経験と思索の関係性を<食べることと消化し同化することの関係に等しい>と語っている。<食物は食べることによってではなく、消化によって我々を養うのである。>つまり、読書が悪なのではなく、読書して他人の思想を知り、わかったような気になってしまうことが悪なのである。精神的消化器官は脳しかない。読書により得た知識や思想を自分の脳で反芻し熟考しなければ、<読まれたものは、真に読者のもの>にはならないのである。
私も今後、書評を書くにあたり、要約文にならないように自分の言葉で書くことを心がけたい。
読書への姿勢
「読書について」では上記の通り、思索の重要性を中心に語られているが、もちろん、読書へ取り組む姿勢も語られている。その中から響いた2つを紹介したい。
①<読まずにすます技術>を身につけること
日本では現在、年間7万冊以上の本が出版されているとのことだ。確かに、書店の店頭には魅力的な標題が並んでおり、手を伸ばしたくなる。私はこれらの本の価値を判断できないが、読むに値する本というのはきっと多くはない。7万冊の評価がはっきりしないものの中から選択するより、多くの人に読み継がれて評価されている本を読むのがよいということだろう。世間で古典や文豪の小説が推奨されているのは、これが理由であろう。<良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである。>
②<重要な書物はいかなるものでも、二度読む>こと
最近は速読というものが流行っており、それに関するハウツー本もよく見かける。もちろん、この情報が溢れている世界で少しでも多くの情報を短い時間で手に入れるのは、必要な能力の1つであるかもしれない。しかし、私が欲しているのは情報ではなく、読書の先にある文章力や思考力の向上である。そのためには、二度読むこと、つまり精読が必要であり、1つ目にも繋がるが、二度読むに耐えうる本を選択することが重要である。<作品は作者の精神のエキスである>ので、そのエキスをすぐに排泄するのではなく、体中に行き渡らせる読書にしたい。
総括
読書は読書で終わらせてはいけない。自分の頭で考えることとセットにしなければいけないのだ。読書については、このブログを始めた理由である「三十五過迄に就て」で記したことと重なる部分があり、今後の自分の読書論を後押ししてくれる形となった。しかし、「大切なのは読書ではなく、読書を材料として思索することだ。」というのはあまりにも極論になってしまう気がするので、思索の重要性は念頭におきつつ、小説の内容自体にも純粋に感動できる読者を目指したい。
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