生命ある文章へのノスタルジア/新文章読本

新文章読本の目的

〈本稿は、文章への素直な道に読者を誘うのが目的〉と頭の方で述べられている。「素直な道」という言葉の意味するところが明確にはわからないが、「誘う」と言うからには、読者を文章の魅力に気づかせることを目的としているのだろう。

「小説への」でも、「文学への」でもなく、「文章への」という言葉を用いている。標題が標題なので、当たり前といえば当たり前なのだが。

通常、「文章」は小説の構成要素の一つと考えられていて、これに対して作者が異論を唱えているものではない。しかし、本来その枠に収まらないものである「文章」、その重要性をいま一度説こうとするのが『新文章読本』の目的といえる。

この思いは、まえがきの段階で既に語られている。

〈文章を単に小説の一技術とみなす風潮が、どれほどわれわれの文学を貧しくしてきたであろうか。昔は、文章は即ち人といわれていた。文章それ自体が、一つの生命を持って生きていた。私のこの拙い一冊はまた、思えばそうした、「生命ある文章」へのノスタルジアであろう。〉

作者の文章への熱い思いが垣間見える。

問題提起

この新文章読本は、全10章で構成されている。1章から3章までは、表現や名文の説明や、日本語文体の歴史を材料に、新文章への可能性と現日本国語の問題点を述べている。4章以降は、文学の個性を生む要素にそれぞれ焦点をあて、個々の作家の作品からの引用と比較、その批評を行っている。全体を通して、いわゆる読書論のようなものはあまり書かれていない。これは、この本の対象者を読み手というよりは、書き手、特に若い書き手を想定して書かれたものだからではないだろうか。

〈今日の作家はややもすれば、文章・表現というようなことは一種の技巧、小刀細工だと考えて、それよりも、内容や思想の方が重要だ、内容・思想さえ立派であれば、文章・表現などどうでもよい、というように考えがちである(中略)今は読者は勿論、作家までが、余りにも言葉・文章・表現……そうしたことを粗雑に考えすぎるということである。〉

ここには、まえがきの内容が、より直接的な表現で書かれている。「文章」の重要性を説く原動力となったのは、この嘆きの感情によるところが大きそうだ。

よって、この『新文章読本』から学んだことを、私の読書に取り入れるとするならばどのようなことが必要であろうか。

明確な方法論が示されているわけではないので、以下の点を問題提起として、今後の読書に取り組みたい。

小説と文章

〈小説が言葉と文字に依る芸術である以上、われわれは、表現をつねに文章によって行うほかない。(中略)芸術にとって表現が大切であるとは、すなわち小説にとって文章はその死命を制する重要な意義があるということで、また小説は言葉の精髄を発揮することによって、芸術として成立するのである。〉

ここまで言われたら、やはり第一は、「文章」を味わうことだろう。

何も考えなければ、「小説を読む=文章を味わう」となるような気がするが、よく考えてみると、意識をしなければ「内容を追う」だけになってしまうかもしれない。確かに、「内容」を面白いと感じることはよくあるが、純粋に「文章」を面白いと感じることはまだまだ少ない。これは、三島由紀夫の「精読」とも通じるが、じっくりと一つ一つの文章を味わうように読書することが必要だろう。

美文と名文

「華を去り実に就く」 

美文と呼ばれるものが必ずしも名文とは限らないと作者は語っている。これを読書に昇華するのは難しいので、肝に命じて書くことに活かしたい。

〈文章とは、感動の発する儘に、自己の思うことを素直に簡潔に解り易くのべたものを良しとする。〉

〈文章の第一条件は、この簡潔、平明ということであり、如何なる美文も、若し人の理解を妨げたならば、卑俗な拙文にも劣るかもしれない。〉

こういう、書評のようなものを書いていると、少し小難しく書いた方が、ぽくなる気がして、背伸びした文章を書いてしまうフシがある。

〈耳できいて解る文章〉を意識したい。

文体と筆致

「文体」と「筆致」というのは、文章に個性をつくる重要な要素である。文体は文章の様式、筆致は文章の書きぶり、ネットで調べて言葉の意味はだいたいわかる。批評でも多く目にする言葉だが、その意味自体が捉えがたいものであり、具体的にこれと説明するのは難しい。これらを認識できるようになることは、より文章を楽しむことに繋がるだろう。それにはやはり、多くの文章を読むことが必要だろう。

新しいものを読むこと

川端康成がそうしていたように、新しい文学を積極的に読むことを勧めている。5年間は新しい文学に触れるつもりのない私にとっては、非常に耳が痛い教えである。ただ、これもある程度の読書経験を持つ者、特に、読みもせず「最近の文学は、、、。」と否定する

、古典至上主義者に向けられた言葉だろうと思う。

今後も「自分で選んだ文豪の作品を読む」というポリシーは曲げるつもりはないが、それはあくまでも、その先の読書をより有意義なものにするためである。今の私では、新しいものを新しいと認識することさえできない。批評できる軸を読書経験の中で身につけた先では、柔軟な思想を持って新しい文学と向き合っていきたい。

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