千羽鶴

お茶の世界は、日本人の美学を凝縮したような世界というイメージがあり、いつか岡倉天心にも手を伸ばそうと考えていた。

しかし、このお茶の世界を題材にした本作品は、そんな清楚な美からは大きく外れた、俗悪な人間関係の中で物語が展開する。

茶道を趣味としていた主人公菊治の父は、菊治が幼い頃、亡くなった友人の妻である太田夫人と不倫をする。

やがて、菊治成長後、父は亡くなり、とある茶会で太田夫人とその娘文子に出会う。菊治と太田夫人は惹かれ合い、夜を共にする。その後、太田夫人はその恋愛の罪深さに悩み自殺する。

菊治はその悲しみを唯一共有できる文子に親近感が湧き、二人の距離は次第に近づき、ここも関係を持つことになる。

菊治の父は、クズなのだが、菊治も菊治で、父の浮気相手とその娘を立て続けに愛するなんて、驚くべき倫理観である。血は争えないのか。

本の内容を紹介すると、こんなにドロドロなのに、実際に小説を読んでいるときには、正直あまり感じない。これぞ川端マジック。なんか、とことん不潔な設定にして、それを自分の文体でどこまで清潔に見せれるかを試しているかのようだ。

ところで、私は、なぜ不倫を不潔なものと考えるのだろう。恋愛は不潔ではないのに、それが複数形になるとどうして非難の対象になるのだろうか。生物学的には問題ない。むしろ、子孫繁栄には好都合だ。悲しむ人が生まれてしまうからなのか。なぜ、悲しいのだろうか。その悲しみは孤独からか、それとも嫉妬からか。人間は弱いものの味方だからなのか。菊治の行為は不道徳だが、必然のように思う。太田夫人が昔愛した菊治の父の面影を菊治に見ることも、菊治が太田夫人の面影を文子に見ることも、愛した人のことを話せる相手に特別を感じることも、そしてこれらが恋愛に繋がることも、何も不思議なことはない。たとえ、行為の動機に共感できたとしても、行為自体が不道徳であれば、その不道徳を選択したことを否定的にみるのだろう。道徳とはある種、偏見なのだろう。

さて、このお茶の世界を舞台にした作品は、お茶の道具を人間関係の俗悪さの暗喩として利用している。このストーリーにあえてこの世界を選んだ意味を考えながら、そのような表現を注意して読むことで、この作品をより楽しむことができるだろう。

コメント

タイトルとURLをコピーしました