山の音

『山の音』は、最初から起承転結を持つ長編としての構想がまとめられていたわけではなく、1949年(昭和24年)から1954年(昭和29年)にかけ、複数の雑誌に断続的に各章が連作として書き継がれた。それら全16章を収録した『山の音』が刊行され、第7回野間文芸賞を受賞している。

ある日聞こえた「山の音」を、死期の告知と感じた主人公が、終わりの近づく人生を懐古しつつも、戦後社会の中で新しく発生する身内の問題に振り回され葛藤する姿を描く。

全体を通してその心理的葛藤に最も大きく影響しているのは、息子の嫁に抱く淡い恋情である。これは、人懐こい嫁に対する親としての愛情ではなく、肉体的な欲望を伴った異性に対する愛情である。しかし、主人公は自身の倫理観から、欲望の対象を美の象徴とすることで、触れざるものとして、意識的に抑制している。

また、息子の不倫や娘の出戻りなどこの家族は様々な問題を抱えており、その家庭問題は、大黒柱である主人公が解決を求められる。これは、みなが父に頼っているというより、問題の解決を押し付けているといった感じだ。会話からも父に対する尊敬はあまり感じとれない。これは、主人公にはじまった老いの兆候をみなが煩わしく思っていることも原因のひとつと思われるが、やはり戦争の影響が大きいだろう。死に直面したことによる個人の変化と、敗戦による社会全体の変化と。戦前よりも、家族内での父親の威厳は失われていたのではないかと思う。

主人公はこのような状況の中で、身近に迫ってくる死を感じながらも、家族との生活を良いものにしようと奔走している。各章ごとにドラマがあり、全体のテーマは決して軽くはないものの、終始穏やかな空気が流れている。家族密着形のホームドラマを見ているようだ。

上記のような大きなドラマだけでなく、犬や鳩、鳶や蛇など数多く登場する動物たちのことであったり、社会情勢や事件をとり扱った新聞記事のことであったり、そのような日常の細かい会話を拾ってみても、それらがパズルのピースのように物語の主題へとはめ込まれてゆく。

これはご都合ではない。私達の日常も、そのとき意識しているものが目にとまり、記憶に残る。それ以外のことはすぐ忘れる。これのせいですべては暗示となり、宿命となるのだ。人はどの天気を意識するかで、晴れ男にも雨男にもなりうるだろう。文学において主人公の目にとまるものは、そのときの心理が影響しているわけだから、そこを切り取ったものが宿命らしくなるのはとうぜんのことだろう。

この小説を読んでいると、還暦になった自分を想像する。死を意識した後も、日常は続いていく。日常に起こる問題から抜け出せるわけでもないのだ。いつか私にも山の音が聞こえるのだろうか。そのとき景色がかわるだろうか。その歳が近づいたときもう一度読みたい作品だ。

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