みづうみ

〈湖の多くは遠いむかし地の奥から火を噴きあげた火口に水をたたへてできた。火はしづまる時が来るが、水には時がない。〉

『みづうみ』発表から7年後、川端は編集を担当した写真集『湖』の「まえがき」で、湖について述べた一文である。

この『みづうみ』という作品は、現実と回顧、そして妄想とを行ったり来たりしているために、時間の流れを感じさせない。代わりにあるのは、主人公の意識の流れだ。そして、その意識の底に湖がある。母の古里の村にある湖。父が自殺か他殺がわからない奇怪な死を遂げた場所であり、かなわなかった初恋の相手である従姉との思い出の場所である湖。幼い頃の暗い記憶の象徴として、湖は意識の中に存在している。

大きな事件が起こるわけでもなく、静かに流れていく。川端康成の作品は、全体的に共通してこのような印象がある。しかし、その静けさと同時に存在した清潔さが、この『みづうみ』からは感じられない。じめっとした暗鬱さが立ちこめている。主人公銀平の猿のような醜い足と、美しい女の後を追跡する奇癖を持っているせいなのか。これともこれが川端康成が描こうとしていた〈魔界〉であるのか。

銀平は、老人の愛人をする宮子に対し、自分と同じ魔界の住人という印象を受ける。つまり、銀平自身、自分のことを魔界の住人だと認識しているということになる。「入り難い」はずの魔界に。確かに、銀平は暗い過去を持ち、現在もどうしようもない人間かもしれないが、それで、魔界に入れるのなら、「入り難し」は誇張になってはしまわぬか。銀平は、追跡癖の局地を、〈この世の果てまで後をつけるというのは、その女を殺してしまうしかないことだ。〉と考えている。この殺人こそが〈魔界〉ではないのか。銀平はまだこの境地へは至っていない。〈魔界〉とは、欲望に忠実に従った結果である行為の先にある世界ではないか。意識は「黒いみづうみ」に閉じ込められる。

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