「仏界易入 魔界難入(仏界入り易く、魔界入り難し)」
これは、とんちでお馴染み、「一休さん」こと、一休宗純の言葉である。
川端康成は、この言葉に深い感銘を受け、「舞姫」の主題として用いている。このテーマ、特に〈魔界〉という言葉は、「舞姫」後の作品にも登場し、川端康成がいかにこの言葉にこだわりを持っていたかが伺える。
仏界は仏が住む世界で、魔界は悪魔が住む世界。仏界はすべての欲から解放された者だけが達することのできる世界で、魔界は欲を刺激する誘惑に溢れた世界。善と悪。仏界には入りやすくて、魔界には入りにくいとは、逆のように思えてしまう。
師匠である華叟和尚から与えられた、「洞山三頓の棒」という公案に対し、「有漏路(煩悩のある境地)より無漏路(悟りの境地)へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と答えたことから華叟より一休の道号を授かったとのこと。有漏路と魔界、無漏路と仏界は同じでないにしろ、似た意味合いを持っているように思う。どちらかというと、魔界と仏界の方がより極地にあるような印象だ。人間の多くは有漏路にいるだろう。そこから魔界に入るのは普通の神経だと呵責が働いてできないということか。しかし、どう考えても悟りの道の方が険しそうだ。やはり、天才一休さんの逆説的な発想を簡単に理解することはできない。
だからこそ、川端康成はこの言葉に惹かれ、文学という手段を使って解釈に取り組んだのだろう。
〈意味はいろいろに読まれ、またむづかしく考へれば限りないでせうが、「仏界入り易し」につづけて「魔界入り難し」と言ひ加へた、その禅の一休が私の胸に来ます。究極は真・善・美を目ざす芸術家にも「魔界入り難し」の願ひ、恐れの、祈りに通ふ思ひが、表にあらはれ、あるひは裏にひそむのは、運命の必然でありませう。「魔界」なくして「仏界」はありません。そして「魔界」に入る方がむづかしいのです。心弱くてできることではありません。〉
これは、日本人として初のノーベル文学賞を授与された川端が、授賞記念講演において演説した、『美しい日本の私―その序説』からの引用である。この文を読むと、「魔界」に入りたいと言っているようだ。芸術等において、人知を超えた能力の象徴として、魔界や悪魔などの言葉が羨望の意味を含めて使われる。そういった、超人的なものへの憧れなのか。また、作家として地位も名誉も手に入れた立場、これらすべてを失う可能性をはらんだ行動、欲に忠実な行動をしたいという願いなのか。
「舞姫」は、元バレリーナの母とその旦那、そして母と同じくバレリーナを志す娘と父を尊敬する息子の四人家族が、父親の利己的な行動によって崩壊していく物語。みな、それぞれが内側に欲望を抱えている。魔界に魅せられながらも、最後まで魔界に入る行動を起こすものはいない。魔界に対する登場人物たちの解釈も答えにたどり着けないまま終わる。「舞姫」を含め、それ以降の作品では、この「魔界」という言葉に注目して読むと、より楽しめるかもしれない。
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