三島由紀夫の作品の中で、最も有名なものの1つであり、長編2作目にして三島由紀夫の文壇の地位を確立した自伝的小説である。
他人と異なる性の感覚(性的不能、同性愛)を、自分の生い立ちから紐解いていく「私」の告白物語。
この小説は、同じ性を題材とした自伝的小説である森鴎外の「ヰタ・セクスアリス」と比較すると、かなり衝撃的な内容になっている。題材となっている性的倒錯への自己分析の精緻さはもちろんだが、その対象となるもの、「私」の性を刺激するものの描写は、三島の豊富な語彙力が遺憾なく発揮され、人によっては不快感を与えられると思われるほど生々しく、文字から放たれた臭気が鼻のまわりに纏綿しているような感覚に陥るほどである。
この作品の中で私が最初に頭を抱えたのが、標題「仮面の告白」の意味である。異常であった「私」が正常の「仮面」を被っていたことを告白するものなのか。それとも、正常であるはずの「私」が生まれながらにして被っている異常の「仮面」が告白をしているのか。これについては、三島由紀夫の発言を元に様々な評論の中で語られている。この疑問を念頭に2回目を読んでみたが、正直わからなかった。というより、意味のない疑問だったのかもしらないという考えが強くなった。おそらく、本当に私が知りたかったのは、「私」と「仮面」の関係ではなく、「三島由紀夫」と「私」の関係について、「私は三島由紀夫なのか。」という問への答えだったのだと思う。
三島由紀夫は、「仮面」の「告白」の意味について、ノートやあとがきの中で、以下のように語っている。
<告白の本質は「告白は不可能だ」といふことだ。(中略)もし「書き手」としての「私」が作中に現はれれば、「書き手」を書く「書き手」が予想され、表現の純粋性は保証されず、告白小説の形式は崩壊せざるをえない。(中略)完全な告白のフィクションを創らうと考へた>
<「仮面の告白」といふ一見矛盾した題名は、私といふ一人物にとつては仮面は肉つきの面であり、さういふ肉つきの仮面の告白にまして真実な告白はありえないといふ逆説からである。人は決して告白をなしうるものではない。ただ稀に、肉に深く喰ひ入つた仮面だけがそれを成就する。>
これらは観念的な表現でいまいちピンと来ない。もう1つ、大岡昇平との対談で以下のように語っている。
<あれに出て来る主人公は、非常に嘘つきの人物で、自分でも本当と嘘の見分けがつかなくなるでしょう。それが小説家のアレゴリーになると思って。それで、自分が真実を言ってると思っていても、それが嘘かもしれないという疑惑に囚われるのは、セックスの関係もあるけれども、男色家の免れ難い心理でね。つまり普通の異性愛に人間は、自分のセックスの方向に一定の確信があるから、物事に相対的の考え方をしないです。それが、あの主人公は生まれながらにして、物事に相対的の考え方しかできないということが、芸術家になるための大きなファクターになったということを書いて、これが芸術家の代表じゃないにしても、芸術家というものの本質論になるんじゃないかと思って書いた。それだけのものです。そこで私小説の問題に触れて来ると思うんですが、普通の健康な人間が、自分の書いた物は真実だと思って書くのが私小説で、書くことに絶対に仮構性というものが入って来ないでしょう。>
自分のことを文章にしたときに、それが仮面を被ったものかどうかなどは本人でさえわからない。意図的でなくとも、無意識のうちに見栄や韜晦によって、簡単に純粋な本人とは異なるものになってしまうからだ。男色家でなくたって、絶対的な考え方ではないのではないか。人間は、相対的な考え方から帰納法で導き出した「絶対」を仮構して、自分というものを形成しているのではないか。これは、自叙伝という形で作られる時に、初めて意識されるものであるので、通常生きていく上で、この世で唯一「絶対」なものが自分であると思い込んでいるだけではないか。
「三島由紀夫=私」というのは、間違いではないだろう。しかし、自叙伝の主人公が肉により深く食い込んだ仮面というだけで、小説の登場人物というのは、作者の仮面に他ならないのではないか。自分の一部を分け与えた(そこにはもちろん理想も含まれるが)仮面であるからこそ、深い心理分析とそれに基づいた心理描写が可能になるのではないか。そういう意味では、「三島由紀夫⊃私」とした方が正しいのかもしれない。小説の中に様々な性格を持つ登場人物たちを生活させるには、作者の感受性によって作られた仮面が必要となるのだろう。
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