三島由紀夫の5作目の長編小説。昭和24年に戦後の世相を騒がせた、「光クラブ事件」を題材にしている。「光クラブ事件」とは、高金利金融会社「光クラブ」を経営していた東大法学部3年の山崎晃嗣が、物価統制令、銀行法違反に問われ、多額の債務を残したまま、27歳で青酸カリを飲んで自殺したというものである。光クラブ社長山崎晃嗣が本小説の主人公・川崎誠のモデルとなっている。実在した事件、人物を題材にした作品は、「金閣寺」、「宴のあと」などが他にもあるが、基本的には作者の想像力で創り上げられた世界であり、通常の小説との違いはさほどないと思われる。異なるのは、結末を読者が知っているという点にある。よって、そこに辿り着くまでの道のりはより論理的で説得力が必要となってくるだろう。今回は作者がモデル山崎晃嗣に抱いていたイメージに作者自身の体験や性格を嵌め込んで、川崎誠という新しい人物を産み出している。
主人公・川崎誠は地方の名家に生まれ、自身も明晰な頭脳を持ちながら、道徳的な偏見を持たない、現代ではサイコパスと表現される人間の特性を持っている。しかし、自身の行動には常に論理的原因を伴わせ、かつ<杞憂居士>と言われるほどの<何か不幸な想像力の天賦>を持っている。その資質は幼いころから備わっており、物語の前半はそんな彼の心理とそれを育む周囲の環境とが細緻に描かれている。後半はこの心理が周囲の人間との関係の中でどのように行為を選択していくのかが、カタストロフに向かい展開されていく。魅力的な悪役は、時にヒーロー以上の人気を獲得する。この光クラブ社長の秀才が同世代の若者にいかに羨望の眼差しで崇められたかは想像に難くない。しかし、「青の時代」の太陽カンパニー社長である同じく秀才の若者には、それほどのカリスマ性を感じなかった。これは、たとえそれが行為の後であっても明確な理由付けを行う性格が、言い訳がましく感じてしまうからだろう。カリスマに言い訳は似合わない。しかし、これについては三島由紀夫作の「盗賊」の主人公・明秀でも同様の印象を抱いたので、川崎誠の性格というより、作者の性格がこのような描写を選択しているのかもしれない。
ちなみに、青の時代 とは、元来、画家パブロ・ピカソの青春期の陰鬱な作風の通称であり、転じて、孤独で不安な青春時代を意味する。川崎誠は人に囲まれている間も精神的には常に孤独だった。そして、最後には肉体的にも孤独になる。この孤独は、山崎晃嗣と同世代で同じ東京大学法学部であり、そして秀才であった自身の孤独を投影したものであろう。また、このような共通点が最後の死の描写が避けられている理由だという意見もあるが、私は単に死を読者に感じとらせるまでが作者の仕事だからだと思う。
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