三島由紀夫初の長編小説。6章からなる。失恋し、自殺を決意した男が、同種の境遇にいた女と出会い、恋愛のない精神的な結びつきを深めながら、心中へと穏やかに歩む物語。文章の骨格を設計する構成力と、それを肉付けするため表現力、筋肉の凹凸や肌の質感を豊かにする語彙力。当時の三島由紀夫が持ちうるすべてが注ぎ込まれている作品である。
失恋からの死の連想はありきたりだが、そこからの出会いと恋愛を凌駕する心中物語、そして、標題盗賊の意味。これらがしっかりとした構成力をもって展開され、読みごたえのある作品となっている。物語を肉付けする心理描写は、理知的に分析がなされ、細かい心の動きも論理立てて説明がなされいるため、精神の評論といった感じだ。一方、観念的な感情の変化などは、心理描写の直接的なものではなく、自然描写からのメタファーで表現している。凡庸な主人公この二点から解剖され、凡庸から逸脱しないまま、魅力のない主人公としての役割を最後までつとめる。
この作品が世に出たとき、文壇の反響は低評だったそうだ。その最たる理由が「人工的な物語」であること。私がこの作品から人工的なものを感じたとすれば、作品の中に入っていても、ふと現実に引き戻された場面を言えるのかもしれない。その理由は両極なものである。
一つは、作者が顔を出す部分である。有り余る感受性を抑え込む理性から、いきすぎた評論によって作者が見えてしまうのではないだろうか。あまりにも深い考察の為に、それを説明しようとするときどうしても冗長な、もしくは読者を置き去りにする堅苦しい文章になってしまうのではないか。(これは私の読解力の乏しさにも由来するが)それは、この小説のテーマでもある「死」について語られるときに顕在化するように思われる。
<生きてゆこうとする常人は、自己の理解しうる限界にαを加えのとして死を了解する。このαは安全弁に過ぎないのだが、彼はそこに正に深淵が介在するのだと思っている。むしろ深淵は、自殺しようとする人間の思考の浮薄さと浅墓さにこそ潜むものかもしれないのに。>
二つは、通常の文体からはずれた劇的な場面だ。これは演出なのか。だとしても、あまりにも突飛な印象を受けてしまった。死の企図の告げあいの後のヒロイン清子のセリフや、大団円などはまさにそうだが、一つめと対比して、「死」について語られる場面から引用したい。
<少しばかり悪ふざけに類する物言いをゆるしていただきたい。「死の意志」というこの徒ごとのおかげを以て、彼はいよいよ死ぬところへ行くまで生きていることができるのだ。彼を今即刻死なせないでいるものは、他ならぬこの「死の意志」だ。作者も亦それに感謝しなくてはならない。なぜなら物語が終るまで主人公を生かしておいてくれるのは、彼自信の「死の意志」の力に他ならないのだから。>
一方、この「人工的」というのは、現実性の乏しい作り話に対して向けられる言葉でもあるようだ。「事実は小説よりも奇なり」という言葉があるくらいなので、現実性に乏しいという非難は、あまり意味がないのではないだろうかと思う。どんなストーリーでも読者がその世界を想像できる三島由紀夫のような細やかな表現力があればよいのではないか。それ以前に、宿命論者である(これは私の妄想の域を出ないが)三島由紀夫にとっては、現実も小説と同じようにすべてが予定調和であるということになるため、ご都合主義=非現実的という式が成り立たないのではないか。主人公の凡庸さを貫いたのは、この批評を予想してのことだったのかもしれない。
最後に読書素人としての気付きもメモしていこうと思う。
大昔に国語の授業で習ったようなことだが、登場人物の目を通して語られる自然描写は、その人物の心境を反映しているということだ。そして、形を留めない水の集合体である海や気候によって様々な変化をする空がその対象に選ばれることが多いように思う。今後の読書では、心理描写との対比を意識したい。
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