三島由紀夫の代表作のひとつである。世界中で翻訳がなされベストセラーとなっており、日本ではこれまでに5度映画化されているため、三島由紀夫作品の中でも指折りの人気と知名度を誇る。
架空の島、歌島を舞台に漁師の青年新次と海女の少女初江の純朴な恋愛を描いた物語。古代ギリシアの散文作品『ダフニスとクロエ』に着想を得て書かれた作品である。
私が最初にこの作品を読んだのが29歳のときで、ちょうど「潮騒」を書いたときの作者と同じ年齢であったため、そこも含めて作者の才能に驚愕し、感化されたことを覚えている。それまで読んだ三島作品の中に含まれていた毒味があまり感じられず、登場人物の異常性や精緻な心理描写からくる重たい空気感、難解な箴言のようなもがなかったため、非常に読みやすいと感じた。悪く言うと、少し拍子抜けした。幸福な登場人物たちが大自然に囲まれて、かわいい苦難を乗り越えていく様を、他の三島作品を読んだ人であれば、いつ不幸が訪れるのかとひやひやしながら読み進めていたのではないだろうか。私も、このまま何事もなくおわるはずがない、どこかで彼らの不幸を待っている自分の性格の悪さに、「僕も読書家らしくなってきたな。」というズレた感想をいだきながら、読み進めていた。しかし、何も起こらなかった。もちろん作者お得意の実験というやつだろう。前作「禁色」の後半部分とも通じるところがあり、さらに極端にその純粋と幸福を突き詰めたという印象だ。
私が「おすすめの三島由紀夫作品は?」と聞かれても、上記の理由からこの作品は挙げないだろう。他の作品と毛色が違いすぎて、三島由紀夫の作品を読みたい人には向かないと思うからだ。とはいっても、作品としては非常に面白いのは間違いない。ストーリーは単純明快で、自然描写は美しく、単に「おすすめの小説は?」と聞かれたらこの作品を挙げるだろう。長すぎないので小説をあまり読まない人にもおすすめできる。
ここまで、この作品の三島作品としての特異性について語ってきたが、私の印象では一ヶ所だけ空気が重く感じた瞬間、三島作品っぽさを感じた瞬間があった。残りの字数がわかってきて、このままハッピーエンドで終わると確信した後、最後の最後の一節である。もちろん、その一節でハッピーエンドを覆すものではない。晴れ渡った真っ青な空の遠く端の方に灰色の雲をちらと認めたような。しかし、それは私の感覚では暗雲だったのだ。
私は普段から「考える」という行為と「幸福」との間に大きな隔たりを感じている。「幸福」は感じるものであり、「幸福」とは何かと考えることは、「幸福」から遠ざかっている気がするのだ。私の周りの人でも考えない人の方が幸福そうである。考える幸福は他人との相対的な指標が生み出すものではないか。感じる幸福は自分の体験からの絶対的な指標が生み出すものではないか。前者は比較対象がより上のものであれば、幸福ではなくなってしまうのだ。そして、考えるが行き着く先はそこである。こんなことを考えてしまっている時点で、自分がいかに幸福でないかを語っているようなものだが、「幸福」の捉え方に関しては「幸福」でないだけなので、全体的には自分は幸福だと思っている。そんなことはどうでもいいが、話を戻すと、この「潮騒」の最後の一節に感じた違和感は、「思想」なのではないだろうか。私にとっての「幸福でない」の象徴ともいえる「思想」が主人公・新次に生まれたと感じたことが、この雲の意味するところなのだと思う。
最後の「幸福」についての私の考え方は蛇足であるが、この作品はただの純粋な物語ではなく、作者の実験によって作り上げられた世界である。このような、ひねくれた眼鏡をとおして読んでみるのも面白いかもしれない。
コメント