主人公の城所昇は、祖父が残した財産と美しい外見、優秀な頭脳を持ち合わせた27歳の青年である。ここまで恵まれた境遇がありながら主人公たりえるのは、やはり何か一種の異常性を持っているからに他ならない。
彼は孤独であった。愛情というものの存在を信じていなかった。興味はあるが必要ともしていない。愛情のない即物的な一度きりの色事を繰り返す生活を送っていた。そこに現れたのが、人妻顕子である。他の女と同じように、昇は彼女と色事に望むが、彼女は他の女と違っていた。不感症だったのである。昇は岩のような顕子の不感に感動した。顕子もまた、自分の不感に怒らない昇に好意を持った。昇はこの不幸の共感から、あえて物理的に会えない環境に身をおくことで、愛さない男と愛されない女の間に人工的な恋愛を創造しようとする。
これがおおまかなプロットである。この流れで、作者が三島由紀夫、「沈める滝」という題名がくれば、おおそよの最後の場面が浮かんでくるのではないだろうか。ハッピーエンドでないのはなんとなく想像ができよう。まあ、結末が予想できたところで、魅力が半減するものではない。この実験は結果よりも、経過が面白いのだ。
昇が顕子と物理的に距離をとる方法として選んだのが、ダムの建設現場へ異動することである。建設現場はもちろん山の中であり、冬は下界との道路が雪で遮断されるため、現場近くの宿舎で越冬する必要があるのだ。つまり、この物語の舞台はほとんどが大自然の中ということだ。大自然から受けた今までに感じたことのない感動は、顕子との恋愛にも影響を与え、心理は様々な推移の動きをみせる。
この小説は、二人の恋愛の動向とそれに伴う心理描写、そして二人を取り巻く人々の性格と行動が大きな見所となっている。もちろんそこも面白いのだが、私がこの小説で真に魅力的なのは自然描写だと思っている。
前半で昇が無感動な人物として描かれ、読者も彼の性格や境遇から納得し、刷り込まれている分、山に入ってからの自然に対する反応の良さは以外だが心地よく、大自然がおりなす日々の出来事に純粋に驚いたり感動したりする昇の変化は爽快感を与えてくれる。さらに、その昇の目を通して読者が感じとる自然は、通常のそれより効果的に演出がされ、より大きく想像力を刺激してくれる。この小説で、自然描写を自分の体験と結びつけ何とか頭の中に創造することの面白さと自然描写と心理描写の繋がりの魅力に気づくことができた。
作品としてよくまとまっているという評価とは裏腹に、あまり派手さがなく知名度もそこそこなので、三島作品のなかからあえてこの作品を読もうとする人はわずかだと思うが、私の中のオススメリストには間違いなく入ってくる作品だ。
以下蛇足である。
私はもともと、あまり自然描写にピンとこないタイプで、どちらかというと心理描写が好みだった。自然描写を楽しむには感動の体験が必要で、自分にはそれが欠けているからだという理由で納得していた。しかし、小説を読んでいくと、逆があることに気づいた。すなわち、感覚の鋭い文豪たちの眼をとおして表現された文章に触れることで、自然の何が美しいのか、どこを見るのかのお手本を得ることができるのだ。視野が広がるというより、視界への意識が強まるといった感じか。そこで得た感動がまた小説を読んだときに想像力の材料となる。結局、どれだけ壮大な景色を見るかということではなく、感動できる器を普段から鍛えておくことが大事なのかもしれない。また、人によって五感が情緒を刺激する鋭さは異なるかもしれない。他の人のを聞いていないからみんな一緒かもしれないが、私は匂いだ。色や音より、記憶や情緒と結びついている気がする。そして、文字にするのは非常に困難だ。
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