三島由紀夫長編4作目、25歳の時の作品。夫を失った悦子は舅弥吉の別荘兼農園に身を寄せることになる。そこで出会った園丁の三郎に惹かれるが、三郎には女中の美代という恋人がおり、その嫉妬が悦子の精神を徐々に蝕んでいく。農園という舞台の上では、悦子を中心にそこで生活する住人にそれぞれ役が割りふられており、まるで1つの演劇を見ているかのような、物語としてまとまった作品である。「愛と嫉妬」、「幸福と退屈」という各々が表裏一体となった2つのテーマを、別荘の住人との生活の中で変動していく悦子の感情分析によって追求し、物語と共に展開させていく。最後には、「愛と幸福」の共存の不可能によって、愛する者の命を奪うという結論に至る。
悦子は「愛される」ことより、「愛するものを独占すること」を望んでいたのではないか。「愛されない」ことよりも、「愛するものが自分以外へ愛を向けたこと」に苦痛を感じていたのではないか。「嫉妬」は愛するものへではなく、愛するものが愛情を向けたものに対して起こる感情である。自尊心の強い人間は、周囲の人間の幸福が自分の幸福を左右してしまうので、自尊心を守り、幸福であるためには、周囲の人間は自分よりも不幸でなければならない。つまり、「愛される」という絶対的なものより、「愛するものを独占する」という相対的なものが、彼女を幸福たらしめるのだ。
彼女は幸福を求める、というよりも信じる一方で、自ら罰を望んでいるかのようにうかがえるような行動をとっている。その罰は「嫉妬」という罪が幸福への足枷になっていると、悦子自身が感じているからではないだろうか。悦子目線で語られる贖罪は一見同情の念を抱かせるものに思われるが、悦子が作り出した幻想の罰であり、「嫉妬」からの解放を求めるものである。「愛される」ことで幸福になるのではなく、「愛さない」ことで不幸を回避することを選択したのだ。最終的に三郎を殺害した理由として口にした、<「あたくしを苦しめたからですわ」>という言葉がすべてを物語っている。
「嫉妬」から解放され、<恩寵>のような眠りをわがものにすることに成功するが、これは永遠の幸福を約束するものでは当然なく、一時的なものに過ぎない。悦子が真の解放を得るために本当に退治すべき獣は「自尊心」だったのではないか。「嫉妬」は単にこの獣が産み落としたものであるため、本体が残ってる以上は、今後も悦子を苦しめることになるだろう。しかし、彼女がこのことに気づくことはない。「自尊心」は彼女の奥深くに巣くっており、幸福の観念と強く結びついてしまっているのだから。
この作品に一際彩りを加えた登場人物であり、私が個人的に好きなのが舅弥吉の長男謙輔である。働かずに親の金で生活している。それでいて口ばかり達者で、社会に対して偉そうに批評を並べている。このような、人間は夏目漱石の作品にも多く登場する。犬儒派とか、シニカルとか、厭世主義とか、なにやらかっこよく?表現されている彼ら、しかし、現代でいうところの「ニート」である彼らに、私は大きな魅力を感じてしまうのだ。それは、上に挙げたような彼らの思想なのか、豊富な時間で得た教養なのか。おそらくそれは、仕事への誇りや働くことへの意欲を持たない私の幼稚さが抱いている、そういう余裕のある生活への憧れからくるものなのだろうと思う。または、私の持たない教養を持ちながら、それを武器にしない余裕。飽きっぽい私が未だに読書を習慣として受け入れ、継続できているのは、この憧れからなのかもしれない。
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