三島由紀夫の短編小説、「序の巻」「その一」「その二」「その三(上)」「その三(下)」の5章から成っている。
『花ざかりの森』というのは、フランスの詩人シャルル・クロスの「小唄」からとられたもので、「内部的な超自然な〈憧れ〉というものの象徴」を意図しており、巻頭にも詩からの引用が置かれている。この「憧れ」、祖先に向けられた憧れが、この作品の主題となっており、各章ごとに祖先の逸話が綴られている。
全体を通して観念的で詩的な表現であり、ストーリーというストーリーもないので、理解するのが非常に難しい。
例えば、私が理解しようと何度か読み返した文章が、「序の巻」にある〈追憶〉についての言及だ。
①〈追憶はありし日の生活のぬけがらにすぎぬではないか、よしそれが未来への果実のやくめをする場合があったにせよ、それはもう現在をうしなったおとろえた人のためのものだけではないか〉
②〈追憶は《現在》のもっとも清純な証なのだ。愛だとかそれから献身だとか、そんな現実におくためにはあまりに清純すぎるような感情は、追憶なしにはそれを占ったり、それに正しい意味を索めたりすることはできはしないのだ。〉
③〈それは落葉をかきわけてさがした泉が、はじめて青空をうつすようなものである。泉の上におちちらばっておたところで、落葉たちは決して空を映すことはできないのだから〉
追憶についての考え方が①から②へ変わり、②の説明として③の比喩を用いている。①も②もなんとなく言わんとしていることはわかるような気もするが、①の「現在をうしなった」や、②の「現実におくためにはあまりに清純」の意味は正直わからないし、③の〈落葉〉、〈泉〉、〈青空〉が②のどの言葉を表しているかがいまいちピンとこない。最初は単純に〈泉〉=〈追憶〉、〈青空〉=〈現在〉と解釈していたが、〈落葉〉が何なのかがひっかかる。〈追憶〉は行為であるから、〈落葉をかきわけること〉を表しているのかとも考えたが、②の一文目で〈追憶〉=〈証〉とされているから、これも違うのだろう。
この理解には三島由紀夫の時間観を紐解くことが重要かもしれない。つまり、過去、現在、未来の捉え方だ。特に現在をどう見ているかが最重要な気がする。が、これ以上は踏み込まないでおこう。
この作品が書かれたのが三島由紀夫16歳のときだというから驚きだ。現在の私の半分しか生きていない青年が書いたものを、私は理解しあぐねている。もちろん、16歳の私にも無理だろうが、そのときに出会っていたらとつい考えずにはいられない。
三島由紀夫自身は、この作品をあまり評価してはいないようだが、最後の作品である「豊饒の海」との共通点を多く指摘されている事実をみると、これも三島由紀夫のルーツのひとつだといえるだろう。
私は三島由紀夫の作品の中で最初に読んだのがこの作品だった。そのときは、正直今よりもはるかに理解に苦しんだ。少し読んでは言葉の意味を調べ、意味をわかった上でもう一度読み直し、それでも何を言いたいのかわからない。結果、また読もうと思って次の作品に進んだ。
今、多くの三島作品を読んだ上で再読してみて、わかったことは、完全に理解するのは無理だということだ。現代文のテストみたいに答えがあるわけではないのだ。表現する方だって、完全に噛み砕けてるわけじゃない。「なんとなくこういうことだろうな。」で次に進むのも大事なのだ。いつかどこかのタイミングで自分の感覚がピッタリとハマることがあるかもしれない。
と、理解できなかった言い訳はこのくらいにしておこう。
コメント