金閣寺

1950年7月2日、国宝・金閣寺は全焼した。犯人は、見習い僧の青年である。

なぜ青年は金閣を燃やしたのだろう。

その疑問に三島由紀夫が出したひとつの答えがこの「金閣寺」という小説である。

事実を題材にした三島氏の作品は、「青の時代」や「親切な機械」などいくつか挙げられるが、告白体で綴られたこの小説に持つ印象は同作者の「仮面の告白」に近い。

主人公がそれぞれの理由で自分自身を「他者に理解されない存在」と認識している点でも共通している。

そして「金閣寺」において主人公が放火を考えるに至った最も根源的な理由、

それこそが、生まれつき重度の吃音症を患っていたことによる【疎外感】なのである。

ある小さな寺の跡継ぎとして生まれた主人公は、父から聞いた金閣の美に強い憧れを抱く。それは吃音症による外界との隔たりが深まるほどに強くなる。強い思いはやがて孤独な心を蝕み、『金閣を燃やさねばならぬ』という想念にたどり着いてしまう。

主人公にとっての放火という行為。それは憎むべき美への復讐とも愛すべき美への救済ともとれる。

犯罪者の複雑怪奇な心理には共感できないはずだが、告白体の臨場感と作者の整然とした重厚な文体は、彼を目の前に裁判所で供述を聞いているような迫力を生み出している。

告白体、つまり一人称であるこの小説では、すべてが主人公を介して読者に伝わっている。

自然や人物から受ける印象、会話やちょっとした日常の事件もすべてが放火への布石となっている。細部まで緻密に計算されつくされた文章は、事実と創作の境界をなくし、金閣寺放火事件のひとつの答えとして成功している。

この「金閣寺」を抽象化すると、「放火犯」の仮面がはずれ、三島由紀夫自身の告白が見えてくるのではないか。

作者は自身を芸術家たらしめている膨大な感受性によって疎外感に苦しんでいた。

戦争という非日常はそんな孤独から彼を救った。しかし、戦争は終わる。

戦死した若者への羨望と無様に生き残った自身への羞恥は社会から隔離された精神の中で、平和への不満と共に破滅的な思想を養っていく。

この思想は美学と呼ばれ、彼の行為を縛るものとなる。

と、これは妄想の域を出ないが、、、。

三島由紀夫が「国宝・金閣寺焼失すー犯人は見習い僧ー」の見出しを見つけたとき、何かの暗喩と捉え、自身の常日頃抱いていた思想と結びついたからこそ、それが創作意欲に火をつけたのだろう。 

「金閣」とは何なのか。この答えを考えてみるのも、楽しみ方のひとつだ。

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