四十代半ばの谷崎潤一郎が、「大衆小説」として、各所専門家からの制約的な意見からいったん距離をおいて、想像力のまま自由に筆をふるおうと書き出した。
舞台となる室町時代の戦乱と、主要な登場人物の一人である「お菊」の名から、この物語の題となっている。
全8章から成り、8章の最後には、(前篇終り)とある。しかし、後篇は書かれていない。この『乱菊物語』が他の谷崎作品と比較し知名度が低いのは、未完であることが原因だろう。
1章の「発端」は、物語の舞台となる播州と、当時の情勢、そして標題のとおり、物語の発端のなる出来事が伝記的な語り口で描かれている。ここだけ切り取っても、短篇の伝承小説として成立しそうだが、長篇の伏線を散りばめ、堅牢な文体で物語の土台を築いている。
とっつきにくい1章から一変し、2章の「二人の侍」の心地よい軽さとユーモアで一気に物語に引き込まれる。3章で1章の世界を引き継ぎ、その後物語が進むごとに、太守と執権の権力争いを軸とした軽快なストーリーと1章の伏線とが繋がってゆく。
コメディあり、サスペンスあり、ロマンスありの、変幻自在な長篇スペクタクルは、作者の豊潤な想像力と同時に、それを作品に落とし込める表現力の高さを伺わせる。特に6章の「室君」でのアクションシーンは、時代劇の殺陣を目の前で繰り広げられているような迫力だ。
晩年にこの後編の執筆の予定もあったようだが、結局実行されることはなかった。しかし、読書の醍醐味は読者の想像力に委ねられる部分があるということだ。確かに作者の描いた後篇を読めないことは非常に残念であるが、想像の余地が大きくなったと思えばいくらか慰められる。第一、未完という理由でこの作品の懐の深さに触れないのはもったいない。
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