「蓼食う虫も好き好き」
これは、蓼のような苦味のあるものでも好んで食べる虫がいるように、人の好みはさまざまで一概にはいえないという意味の慣用句だ。使われる場面といえば、異性の好みを仲間内で話すときであろう。いわゆる「B専」というやつだ。つまりこの場面においては、虫に例えられた方よりも、蓼に例えられた方に対して、甚だ失礼な言葉となる。
さて、この作品における、「蓼」と「虫」は、誰を表しているのだろうか。
『蓼喰ふ虫』は、肉体的な愛情の欠如から、離縁を考えながらも、最後の決断に踏み出せない夫婦の物語である。そしてこの物語は、谷崎自身が体験した2つの事件の影響下に描かれている。
1つ目は、「小田原事件」である。
1921年頃谷崎は、千代子の妹・せい子(『痴人の愛』のヒロイン・ナオミのモデル)に惹かれており、妻・千代子夫人に対しては冷淡であった。谷崎の友人・佐藤春夫は千代子の境遇に同情し、それがいつしか恋へと変わり、三角関係となる。それを知った谷崎は、いったん千代子を佐藤に譲ると言うが、結婚するつもりでいたせい子にフられ、前言を撤回した。裏切られる形で失恋した佐藤は、谷崎との交友を絶つ。
2つ目は、「細君譲渡事件」である。
1926年に佐藤と谷崎は和解する。そして、1930年、千代子は谷崎と離婚し、佐藤と再婚した。離婚成立後、3人連名の声明文を知人に送ったことで、新聞などでも報道されて反響を呼び起こした。
実際は、「細君譲渡事件」の前年に千代を和田六郎に譲ろうとしたことに対して、佐藤が猛反対としたという出来事が直接のモデルになっているらしいが、この一連の事件をもとに描かれていることは間違いない。まさに「事実は小説より奇なり」である。
これらを踏まえた上で、最初の問いに戻ろうと思う。「蓼」と「虫」。佐藤や千代子夫人のことを考えると、谷崎が自分自身のことを「蓼喰ふ虫」と表現していると思いたい。つまり、「私が蓼喰ふ虫であるばかりに、元妻の良さを知ることができなかった。」という捉え方である。しかし、この一連の挙動を追うと、二人のことを「蓼」、「虫」と表現しかねない人物だと思えてしまう。どっちだとは断言できないが、やはりあまり大声で言うべき言葉ではない。
この物語で問題にされる肉体的愛情のことであるが、やはり男女の関係においては、重要なことなのであろう。重要なことであるのはわかるが、離別を悲しむということを愛とは言えないのだろうか。
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