禁色

 三島由紀夫が20代の総決算として書いた長編小説。当時はまだ社会的禁忌として一般的に馴染みのなかった同性愛を正面から取り上げ、文壇に大きな反響を呼ぶと同時に、三島の作家的地位を堅固なものにした作品である。

    女への欲望と女から愛されない醜貌を持つ老作家俊輔は、このどちらかの特性が欠けることで幸福が得られると考えていた。欲望がなければ醜さは気にならないし、醜くなければ性欲を満たすことができるからだ。青年の頃美しさに憧れ、老齢になった今では女への欲望を失うことを望んでいた。彼は美を恨み、美に嫉妬し、美と戦っていた。

    そして、彼は運命的にも、この望みを2つとも満たす青年悠一と出会う。彼は女への不感と女から愛される美貌を持っていたのだ。彼は俊輔と対偶の存在で、皮肉なことに同じ不幸であった。二人は俊輔の青春を悠一が裏返しで生きるという契約を結ぶ。俊輔が欲して得られなかったモノを悠一は欲さずして得ることができるからだ。美との戦いの原因である女たちへの復讐を美の力によって遂げていく。彼らの関係はまるで、メフィストとファウストのようだが、悠一の告白を聞いた後に俊輔が<悪魔のように上機嫌になった>という表現は、これを意識したものかもしれない。

    はじめは俊輔が思い描いたとおり、芸術作品に化身した悠一は与えられた指示のとおり、女たちへの復讐をこなしていくが、作品は次第に意志を持ち、知恵を持ち、行動をするに至って、ついには制御がきかなくなってくる。ここで俊輔と美との長きにわたる戦いは、俊輔の敗北でおわるのである。悪魔だったのは俊輔ではなく、悠一だったのかもしれない。美の悪魔は、女だけでなく男たちにも一時の幸福とその後に残る絶望を与えていく。しかし、天災の影響は必ずしも傷だけではなく、被害者の精神的な変化も与えていくのである。

    この被害者たちも非常に魅力的であるが、特に鏑木夫人に関しては、物語の重要な要素となっている。もともと「禁色」は二部構成であり、第一部『禁色』は1951年(昭和26年)に連載された。第二部は『秘楽』(ひぎょう)と題されて1952年から連載された。重要なのは、第一部と第二部の間に、作者が世界旅行中のため、10か月の休止期間があるということだ。そして、この旅行の後に第一部の結末を修正している。その修正点こそ「鏑木夫人」の死である。つまり、この世界旅行が、物語の舵を大きく変えるほどの感動を作者に与えたということになる。これは、「禁色」だけでなく、その後の作品にも影響を与えており、特に直後の「潮騒」では、その影響を違和感として感じることができる。

    以下は、老作家俊輔の作品の特徴である、生活との解離について語られる場面からの引用である。

 <われわれが思想と呼んでいるものは、事前に生まれるのではなく、事後に生まれるのである。まずそれは偶然と衝動によって犯した一つの行為の、弁護人として登場する。弁護人はその行為に意味と理論を与え、偶然を必然に、衝動を意志に置きかえる。思想は電信柱にぶつかった盲人の怪我を治しはしないが、少なくとも怪我の原因を盲目のせいではなく電信柱のせいにする力をもっている。一つ一つの行為にのこらず事後の理論がつけられると、理論は体型体系となり、彼、行為の主体はありとあらゆる行為の蓋然性にすぎなくなる。彼は思想を持った。彼が紙屑を街路に投げた。彼はおのが思想によって紙屑を街路に投げたのである。こうして思想の持ち主は、自分の力で無限に押しひろげることができると信じている思想の牢獄の囚われ人となるのである。>

 この思想について記述は私の印象に最も強く残ったものである。もともと私には、思想とは行為を生むものという理解しかなかった。そして、思想とは外部からの影響によって生まれるものだと考えていた。しかし、上記の考えは確かに納得できるもである。鶏とたまごの関係のように、行為によって思想が生まれ、その思想が成長して行為を生む。そう考えると、私が抱いていた、今まで読んだ作品の登場人物の心理描写に対する「言い訳がましい」というイメージの説明がつく。あれは、行為が思想を生み出す瞬間、思想の誕生の瞬間だったのだ。そして、本作品の主人公・悠一には、その「言い訳がましさ」を感じることは少なかった。彼は美であり、美は自然である。自然は思想を持たないのだ。美は自身の行為を弁護する必要がない。なぜなら、人が天災を責めないように、美を責めることができないからだ。

    俊輔の悠一に対する思いの変化は、俊輔自身の思想に対する認識の変化に由来するのかもしれない。思想は行為への弁護の繰り返しで体系化していくなら、そして、その体系化された思想が次の行為の理由となるなら、これは自己暗示だ。「思想を持たない」というのは矛盾で、それは「思想をもたない」という行為であり、ある思想によって生まれた、虚構の行為なのである。しかし、このような思想の牢獄を内側から破るのはほとんど不可能だろう。

    この「禁色」にはこのような、箴言が各所にちりばめられており、それらは登場人物たちの心理と密接に関係している。しかし、今回は完全に読解できていたとはいえない。まだまだ作者の意図するところがあるだろう。きりがないのでとりあえず次の本に進んで、また挑戦したい。

 この作品は、三島由紀夫の著作の中で私が最も好きな作品だ。上記のような箴言や心理描写はもちろん興味深いが、単純にプロットが面白い。数少ない人に薦めたい本の中のひとつである。

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