本書は、高級料亭の女将かづが、熟年恋愛により巻き込まれた東京都知事選と、その後の人生の選択を描くことにより、政治の本質をアイロニカルに表現した作品である。
モデルとなった東京都知事候補の有田八郎と三島由紀夫の間で、「プライバシー」と「表現の自由」の問題が日本で初めて法廷で争われた原因となったことでも有名である。
物語の中心は、東京都知事選。
革新派の顧問だった野口が立候補することになり、かづは夫を勝たすことに全力を注ぐことを決意する。
自身の掲げる気高い「理想を実現するため」に選挙に臨む野口よりも、情熱の赴くまま、あからさまな「選挙に勝つため」の行動をとるかづの方が、民衆の心を捉える。
専門的な理想論より、情に訴える素人の言葉の方が民衆を動かすならば、政治的なのは後者と言えるだろう。
結局、保守党勢力の持つ財力や裏工作の前に二人が破れてしまうのは、二重の皮肉なのかもしれない。
ヒロインかづの異常な行動力は、何を源としていたのだろうか。夫への純粋な愛だけか。人生を達観し、不変、そしてその先にある死を意識していた折りに、目の前に現れた野口。当人の魅力はさることながら、「孤独な死」から逃れる術としての、自分が入る「墓」を欲しての結婚だったのか。
しかし、都知事選という宴が始まり、異常なまでの勝利への執着。そして、敗北のあとに残された空虚感。最後には、平穏な生活と引き換えに、一度手放した料亭「雪後庵」の再開という苦難の道を選ぶ。
彼女が恐れていたのは、孤独ではなく、孤独を意識させる不変だったのではないか。野口との出会いの際に、何らかの「変化」の臭いを嗅ぎとったのではないだろうか。
この逆境という変化に立ち向かうことこそが彼女の生き甲斐であり、夫の勝利や雪後庵の建て直しは、それを達成するための手段に過ぎないのであろう。
こう考えると、振り回された野口が不憫に思えてくる。彼はかづのわがままに付き合わされただけなのではないか。
行動力のある人間というのは、自己を正当化する能力に長けている。自分の行動は常に自分の正義に基づいて行われており、その行動を妨げるものこそが悪なのだ。例えば、優れたリーダーは、その振り回された人間にも振り回されたことに対する正当な理由を与え、同じ正義を共有することができる能力をもっているのだと思う。
この正当化をどれだけ自己に行えるかが理知と情熱のバランスとなり、正当化をどれだけ周囲の人間にも及ぼすことができるかが理想と現実の境界となってくるのだろう。
この物語の登場人物で山崎素一に一番共感した読者も少なくないだろう。彼は、都知事選の際に参謀として野口家に派遣され、東京都政を野口に講義する役割を担う。実際家である彼は、かづとも野口とも違う魅力がある。両極端に描写されている二人の間にいて、彼に共感するのはあたりまえなのかもしれない。
今まで書いてきた理知と情熱という対比と矛盾してしまうが、彼と比べればかづも野口も情熱的な性格なのかもしれない。それが周囲も熱する情熱か、周囲を冷めさせる情熱か。比較すべきは情熱の性質か。理知と情熱は共存できるし、無知が情熱を持っているわけではない。
山崎という立ち位置は、読者に冷静に二人を比較する手助けをしてくれる。
個人の性質がいかに周囲への影響力をもつかを、本作のテーマである「政治」という枠を越えて、改めて考えることのできる作品である。
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