豊饒の海

〈世界解釈の小説〉を目指して、1965年(昭和40年)6月からこの小説を書き始めた三島由紀夫は、最終巻の入稿日1970年(昭和45年)11月25日に、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺した。

三島由紀夫という人物は、この割腹自殺という衝撃的な事件によって、世間からは活動家としての側面ばかりが認知されている。私もそうであったし、実際何も間違いではない。彼が戦死というものに憧れつつ、生きながらえたことへの劣等感を抱いていたことは明らかであり、その反動で戦後社会への不満を抱えていたこととそれが割腹自殺にまで繋がる活動への原動力になっていただろうことも理解できる。

私はかねてより、文豪と呼ばれる人の中には自ら命を断つものが多いような気がしていた。そんな中、三島由紀夫がどこかで語っていた、「作品を書いている時は2つの世界を生きていて、作品が完成するというのは、そのうちの1つが終わるということだから、達成感より不快感の方が大きい。」というような内容の言葉に妙に納得した。この不快感に耐えられなくなるのではないか。しかし、三島由紀夫の理想主義やナルシシズムが単純な自害を許さなかった。現世で活動家としての役を自分自身に与えられた彼は、芸術家としての自害を、活動家としての自害で覆ってしまったのではないだろうか。つまり、芸術家としての最後の大仕事を成し遂げた後の死に方として、市ヶ谷駐屯地での割腹自殺を選んだのではないだろうか。

自身の文学の最終課題として三島由紀夫が取り組んだ世界解釈とは何なのか。

それは、〈世界包括的なものを文学で完全に図式化〉することだと彼は語っている。

 つまり、宗教のように、「世界はこうしてできている」という真理を文学で表現するということだ。

この材料として用いられたのが、仏教の輪廻転生である。夢と転生の物語である、日本文学の古典『浜松中納言物語』を典拠としており、『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』の全4巻から成る本作は、20歳で死ぬ若者が、次の巻の主人公に輪廻転生してゆくという構成である。この輪廻転生を軸として、仏教の唯識論を紐解き、世界解釈を展開している。

1,2巻は、普通の文学として楽しめるが、3巻からこの解釈に割り当てられる部分が多く、非常に理解が難しい。

私がこの小説で、仏教の考え方に触れ感じたことは、この唯識論の考え方と科学の量子力学は、近いのではないかということだ。

小説の中でも度々現れる「阿頼耶識」という言葉、これは、個人存在の根本にある、通常は意識されることのない8つの識の最深層に位置するとされる精神作用である。阿頼耶識に関しては諸説あるが、私が特に気になったのは、「刹那に生滅しつつ持続する。」という考えだ。この考え方が、とびとびの値を取る量子力学と通じるものがあると感じた。

また、この量子力学が観測や意識によって対象に影響を及ぼすという論争が行われているという点でも、この小説に通じるものがある。

今はここを深く掘り下げる時間と知識がない。

いずれにせよ、このように様々な謎を抱え、未だに多くの人が研究の対象としているこの作品を、多くの人が読み、語ることでさらに魅力が増すだろう。

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