この物語は対照的な二人の男の出会いから始まる。
一人は駒沢。
紡績会社の社長であり、近代的なアメリカ流の経営が主流となっている業界において、日本古来の家族主義的経営によって、大企業に迫る成長を遂げている。
一人は岡野。
若い頃にドイツ哲学を学んだ知識人であり、政財界に広く顔を利かせながら、裏社会で画策し利益を得ている。
この二人の人物から抽出した要素の対比がこの作品の骨格を成している。
日本と西洋、古来と近代、心情と知性。
それらをさらに抽象化したものが、題名「絹と明察」である。
上記だけを見ると、駒沢が正義で、岡野が悪かのように感じてしまうが、
1954年に近江絹糸紡績において発生した大規模な労働争議を題材にしている本作品において、その発端である駒沢は、明らかに「悪」側のはずである。
自身を「父」とし、従業員を「子」とする、家族主義的経営。字面こそ良い印象を受けないでもないが、その実は経営者に都合のいいものとして、岡野の視点で語られている。
〈自ら意識しないような完全な偽善、企業の合理主義を天性の能力でまったく情緒的なものに包んでしまうその遣口、彼の動かしがたい自己満足、〉
〈人間を物として利用するときに、一つの徳目を強制するのは当然な考えだが、感恩報謝なんていう自発的な意志を、少しでも当てにすべきじゃない。〉
当時の労働者保護の風潮からさらに時が経った現在において、さらに「ゆとり世代」と揶揄されている過保護世代ど真ん中の私にとっては、この意見はかなり共感できるものであった。
最近も「建前ではなく、本心で仕事をしよう!」という言葉を耳にして驚いた。その言葉自体が「建前」であることに気づいているのだろうか。それとも、「建前」として矛盾した言葉をあえて発しているのだろうか、、、。
ところで、前に駒沢を「悪」側の”はず”と表現したのは、小説内での駒沢は「悪」としては描かれていないからだ。確かに、社会の風潮を反映し、時代遅れの偽善者として、滑稽に描かれてはいるが、そこには作者の愛着を感ぜずにはいられない。非難されるべき家族主義的経営に対しても、どこか郷愁的な心情を抱いているかのように見受けられる。
作者自身は執筆動機として以下のように語っている。
「書きたかつたのは、日本及び日本人といふものと、父親の問題なんです。二十代には、当然のことだが、父親といふものには否定的でした。「金閣寺」まではさうでしたね。しかし結婚してからは、肯定的に扱はずにはゐられなくなつた。この数年の作品は、すべて父親といふテーマ、つまり男性的権威の一番支配的なものであり、いつも息子から攻撃をうけ、滅びてゆくものを描かうとしたものです。」
現在、私は経営者でなければ、父親でもない。「立場が変われば小説の読み方も変わる。」とよく聞くが、この小説はまさにその筆頭かもしれない。何者でもないこの時期にこの作品を読み、その感想を残せたこと、そして、経営者にも父親にもなれるかはわからないが、なれたときの楽しみが一つ増えたことは幸福である。
コメント