痴人の愛

カフェで出会った美少女を引き取り、理想的な女に育てようとした、真面目な男が、奔放な正体を徐々に現してくる少女に対し、振り回されながらも依存性を強めていった過程を、男の一人称告白体で描いた物語。豪奢な表現力と繊細な構成力とが合わさった谷崎文学の中でもとりわけ人気の高い長編小説。当時、美少女の名前であるナオミからとった、「ナオミズム」という言葉が流行語となったことからも、この作品の高い人気が伺える。

自分が育てた女に翻弄されるという、「飼い犬に手を噛まれる」構図は、処女作である『刺青』と共通したテーマを持っている。噛まれた手の痛みは快感となり、その快楽を餌に主従関係は逆転する。この精神的身体的苦痛に対して一種の快感を得ることをマゾヒズムと呼ぶ。

女が自由にできる環境を手に入れて、徐々に本来の性質である奔放さを解放していくのと同時に、男も自分の中に眠っていたマゾヒズムを目覚めさせられてゆく。

本来、性的サドや性的マゾと呼ばれるものは、誰の中にも眠っていて、周囲の人々の性格や環境などの外的要因が、そのときの心理状態などの内的要因と共鳴することで、どちらかの性質がより強く目覚めるのではないだろうか。この作品の男が感じている快感というものが、性的なものであるか否かという問題はあるが、対象に異性としての魅力を感じており、性行為も行っているので、多少なりとも性的なものを孕んでいると思われる。このサドマゾは、両極端な性質を表しているが、性行為の快感というものはこのサドマゾ軸のどこかに分布する快感と常に結びついているのではないか。なぜなら、性行為が単に性的快楽を求めるだけであれば、それは自慰行為と何ら変わらないことになってしまうからである。サドマゾの快感を満たすためには、多くの場合相手必要なのだ。まあ、これは生物的な本能を無視した意見でただの戯言なのだろうが。

この作品は、男が読者に事の顛末を告白してゆく形式で進んで行くが、やられっぱなしの男を軽蔑しながらも、ナオミの動向に惹き込まれていく。一人称の作品は、三島由紀夫の『仮面の告白』や『金閣寺』などの名作を読んだことがあった。作者の性質もあるだろうが、その2作品の重苦しい雰囲気と比較すると、この作品は非常に読みやすい。いくら共感できたとしても、この男の悲劇は、私たち読者が喜劇として読むことを想定されているのだろう。

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