男としての能力を既に失っている老人・卯木督助が、美しく驕慢な嫁・颯子の魅惑に翻弄され、自身の生を犠牲にしながら、性を追求する姿を日記形式で綴った作品。
執筆当時の谷崎潤一郎と主人公の卯木督助が同じ歳の老人であるので、自分をモデルにしていることはわかる。そして、『谷崎潤一郎=渡辺千萬子往復書簡』を読むと(読まなくても、今となっては有名な話なのであるが。)、颯子のモデルが、谷崎の最後の妻谷崎松子の連れ子である渡辺清治の妻・渡辺千萬子である。
今までの谷崎文学に一貫していた、女性礼賛とマゾヒズム、そして足に対するフェティシズムは、不能と老齢という制約下で、それを利用するようにさらに剥き出しに描かれている。
一見、颯子に振り回されているようだが、実際は督助の方が「老イ先短イオ爺チャンダカラ許シテネ」とでも言わんばかりに、わがままな性的欲望をぶつけている。
正直、気持ち悪いと思ってしまう部分もあるが、自分の性癖を赤裸々に綴ったような内容の作品を文学的傑作にしてしまうのは、さすが大谷崎。
文学を含め、芸術家は、独自の表現を持った社会活動家的な一面も持ち合わせているものだと思っていた(三島由紀夫が原因だが)。もちろん思慮深い芸術家たちの意見は非常に勉強になるし、読書の中でそのようなメッセージを探すのは1つの楽しみでもある。しかし、谷崎潤一郎はそういったタイプではないと思う(私が読み取れなかっただけかもしれないが)。単純に美しいと感じた景色や人を小説という方法で表現する。そこに、暗喩や教訓は存在せず、あるのはただ純粋な美。いかに、変態的であろうとも、私が彼の作品からいやらしさを感じないのは、そういった部分が大きいかもしれない。
老人の性を描いたものとして、川端康成『眠れる美女』と併称されることが多いが、私は三島由紀夫『暁の寺』の本田繁邦を思い出した。女の肌を見たいがためにプールを作ってしまうところ、そして、「のぞき」という特殊性癖を持っていることなど、共通点も多い気がする。ただ、『暁の寺』では、そこが主題ではないのであまり比較にはならないのだろう。類似したテーマを持つ他作者の作品と比較するというのは、難易度が高そうだが、かなり興味深いので、もっと多くの作品に触れたあとで挑戦してみたい。
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