『国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。』
本を読んでこなかった私でも知っている有名な書き出しである。このたった一文で引き込まれる。この効果がこの一文を有名にしている所以であろう。九州で生きてきた私にとって、雪国というのは未知の世界である。しかし、そんな私の想像力でもトンネルの暗闇からあけると、そこには一面の銀世界が広がる。
しかし、この一文にばかり感動してはいられないよう。
その後につづく、『夜の底が白くなった。』の方が、多くの読書家から関心を寄せられているようだ。これは、列車のライトに照らされて、積もる雪が白く光っている様子を表現している。つまり、ここでの「夜」は、空間を指している。「夜という空間の底が、、、」というニュアンスなのだ。
一方、私の乏しい読解力では、「夜」は平凡に時間と捉えたので、「底?」となってしまった。「夜の底」、底は深いから、「深夜」。「深夜、暗闇であるはずの世界が、真っ白一面の雪でぼうっと明るくなっている。」、これが最初に読んだときの私のイメージ、理系とは思えない非科学的なイメージだった。
まあしかし、いくら大物が上の解釈をしたとしても、それを正しいものと言い切ることはできない。これが読書の醍醐味だ。
さて、この物語は、ある男が雪国を訪ね、女と出会い、いちゃいちゃするというものだ。男には妻とこどもがいるわけだから、現代の倫理観からするとあまりよろしくない。女は終着点のない恋愛だと知りつつも、男に惹かれてしまう。
そういったことも含めて、雪国でひたむきに生きる女の姿は、働かなくとも不自由な生活の送れる男の目には「徒労」と写る。
この「徒労」という、通常あまり良い意味では使われない言葉が、この『雪国』では、その女を表す1つのキーワードとなっている。言葉の意味をそのまま読むと精一杯生きているその様を無駄なことと一蹴していることになる。しかし、本文を読んでいくと、この「徒労」には、相手を侮辱した心理はこもっていないように感じられる。むしろ、生きることに情熱を持てなくなってしまった男が、その不器用にも熱を帯びている女の生き様に対する羨望の思いを、照れ隠しで表現したかのような。
このように、通常は負の要素を持つ言葉が使用されようとも、澄んだ雪国の自然描写と健気な登場人物たちの心理描写によって、作品全体に美しく清らかな空気が流れている。
最後に、伊藤整氏が執筆した、この作品のあとがきに感動したので、引用したいと思う。
〈『枕草子』の脈は、私は俳諧に来ていると思う。(中略)そして、突然泉鏡花において散文にほとばしり、(中略)川端康成において、新しい現代人の中に、虹のように完成して中空にかかった。〉
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