私が谷崎文学を読み始める前、本屋で手にとってパラパラとめくってみたのがこの作品だった。私が読んだページはカタカナだらけで、とても読みづらいと感じたことを覚えている。まさか他の作品もすべてカタカナじゃないだろうなと不安になったのも、今となってはいい思い出だ。
実際、谷崎文学を読み始めてみて、すべてがカタカナではなかったけれども、『卍』にしても、『春琴抄』にしても、独特の文体には一種の抵抗を感じたのは間違いない。しかし、その文体に慣れたときの心地よさは、谷崎文学の醍醐味と言える。
この物語は、お互いに盗み見されることを前提として書かれた夫婦の日記を、我々読者が盗み見ているという構図をとっている。読者は夫婦の日記を媒体にして物語内の出来事を把握していく。
54歳になり性欲が衰えてきた夫が、大好きな妻との情事のために、妻の姦通をそそのかし、その嫉妬心を興奮材料として利用しようと画策する。そして最終的にはその行き過ぎた興奮が原因で命を落とす。
当時、法務委員会で議論され、新聞でも「ワイセツか文学か」と取り上げられた。もちろん、芸術作品として理解されたが、それだけ刺戟的な内容であるのは間違いない。
女性に翻弄され、破滅に向かうという構図は、谷崎作品の中では一貫したテーマともなっているが、この作品は翻弄される男が老人であるところが今までの作品とは異なる。性の追求が、常に「死」の危険性を孕んでいる。ひとつひとつ選択を究極のものにしている。
〈あの夜は私は明らかに或る目的をもって寝たふりをし、譫語のように見せかけてあの言葉を云った。はっきりした意図と計画に基いていたとまでは云いがたいが、―やはり幾分は寝惚けていたのかも知れないが、―寝惚けているのを意識しながら、良心を麻痺させるのにそれを利用した。〉
上の文章は、妻の日記からの抜粋である。シーンの説明は省略する。この文章を読んだときに心当たりを感じた。多くの人が体験として持っていることを言語化できる能力、さすがは文豪である。純粋に身につけたい。
本作品はミステリー小説としても楽しめる。日記をもとに出来事をなぞっていくワクワク感は、カタカナの読みづらさなど、すぐに忘れさせてくれる。
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